トップ  >  エレクトロングループ  >  新生エレクトロングループの経緯

◎ 新たなるエレクトロングループにいたる経緯

1958年に出版された「静電三法」(技能専修員用テキスト)は、その著者 物理学者・楢崎皐月氏が「全国静電研究会連合」をとおして、各地で静電研究会を普及機関として「静電三法」の技能専修員を養成する講習会を開設していた際に用いられたテキストです。
その知識・技術を、その後 内生蔵長一郎氏が中心となって、より具体的な開発活動が全国でなされ、その実証が農業・畜産を主体に積み重ねられていきました。さらに、その遺志をついだ組織の一つとして螢┘譽トロン(代表 井戸勝富氏)がありました。長年の草の根運動は次第に新聞、TV、ラジオ、書籍に取り上げられるようになり喧伝され、衆目にも触れるところにまでいたりましたが、2003年に足掛け30年の幕を閉じました。

しかし、多くの電子実践会員の方々の要請にこたえるため、各地域の担当者が新エレクトロングループとして事業運営することとなりました。同時に「日本電子物性技術研究会」を立ち上げました。30年の実証活動の中での電子物性の知見をまとめなおし、会員はもとよりさらに多くの方々に、より良い成果をご案内できるよう、さらなる研究・開発を重ねてまいります。新生エレクトロングループは これからも、楢崎皐月氏の「静電三法」の技術を中心に、次世代に繋ぐための技術研究と、普及開発の拡充を目指します。

◎ 楢崎氏と大きな関わりを持った人物

楢崎皐月の写真

楢崎皐月 1899〜1974 山口県で生まれる。数学を得意とし、電気に精通する。日本石油で、「絶縁油開発」に着手。また亜炭から人造石油を作るプラントにたずさわるなど、独創的な発想で、研究開発を行っていた。
石原莞爾の目に留まり、その後 吉林省にて陸軍製鉄技術試験場所長として、赴任。その際、工場製品の出来具合や、作業従者たちの健康度が土地の優劣に影響することに気づくなど、敗戦後の日本の食糧増産の鍵となる着想を得ていた。
敗戦後まもなく、星一(星製薬創業者)より、戦時中の技術研究の平和利用を勧められ、食料的農産物の土地生産力を飛躍的に増大させる研究に入った。なお、この研究には戦時中の陸海軍の優秀なる頭脳スタッフがかかわり、楢崎皐月氏を中心とした「化成会」(昭和21年12月)が組織され、昭和27年1月には化成協会も設立した。その後、昭和41年1月に二つの会の発展的解消を行い、新たに「生野道(ナラシノミチ)」を発足した。
その後 植物波農法、物質変性法、人体波健康法を柱にした、「静電三法(技能専修員用テキスト)」を元に開発普及活動が行われた。

星一の写真

星一 明治6(1873)年、福島県福島県石城郡錦村生まれる。20歳で渡米しコロンビア大学で経済学と統計学を修め、12年間のアメリカ生活の中で野口英世と出会い、親交を保つ。
その後 帰国し、星製薬を創業した。その研究開発姿勢は、独創的な視点で貫かれており、冷凍粉末(フリーズドライ法)を完成させるなど、多くの食料品に応用されていった。その間 後藤新平との知遇を得て、第一次世界大戦終結後のドイツの窮状も支援した。また、その経営の基本理念は人材育成であり、工場内の施設は企業の中では、トップレベルであり、特に教育部門を通じ、青年子女への教養・教育には熱心で、その後星製薬商業学校・星薬学専門学校を得て、星薬科大学を創設した。その理念を、具体的にあらわした著作として、「親切第一」は特筆すべきものがある。

石原莞爾の写真

石原莞爾氏 1889〜1949 昭和期の陸軍軍人。山形県に生まれ、陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業した。1928年(昭和3)に関東軍主任参謀、さらには作戦部長となり、不拡大方針を堅持した。
その後、関東軍参謀副長に転任したが、戦略上の考え方の相違により関東軍参謀長の東条英機に罷免されて予備役にしりぞいた。戦後は「都市解体・農耕一体・簡素生活」を唱え、晩年は山形で石原を支持する若者等と開拓生活をした。この不出世の名将の名将、且つ日本民族史の誇りとして伝えるべき大偉人の姿を如実にあらわした著書「秘録 石原莞爾」は必読に値する。

カテゴリートップ
エレクトロングループ
次
エレクトロングループ拠点
「静電三法」と物質変性法
「化成会」「化成文化主義」
生活電子資材の紹介
炭素埋設
エレクトロングループ
リンクと推薦図書
問い合わせ
検索
オンライン状況
1 人のユーザが現在オンラインです。 (1 人のユーザが エレクトロングループ を参照しています。)

登録ユーザ: 0
ゲスト: 1

もっと...
アクセスカウンタ
今日 : 5353
総計 : 149842149842149842149842149842149842